エストニアのタリンという首都は日本でおなじみのヨーロッパの主要な国の首都とは比べ物にならないくらい小さい(と個人的には思う)、唯ソビエト時代に建てた少し離れた郊外の何とも無機質なアパート郡を含めるとまぁ多少は大きな都市ともいえる。
そんなエストニアの首都の街、タリンの足といえばバス、トラム、トロリーバス、これは現在でも基本的に変わりは無い、今と何が違うのかって言えば第一に街の印象だ、、、今は当時からはすっかり変わって綺麗なヨーロッパの一小都市といったたたずまいである。
でも、ボクが初めて訪れた時のエストニアは政治的にも社会的にも現在とは殆ど間逆から何とか脱出し始めたばかり、、、といった感じで、、あちらこちらにまだまだ手付かずのソ連が広がっていた、、それがある意味とても面白くある種の興奮を覚えていた、、、部外者であるボクの立ち位置からこの街の様子、人々の暮らしを眺めていると、一生懸命ヨーロッパの仲間入りしたい(ソ連から脱却したい)という人々の切実な願いとは裏腹に、「お〜、すごい車が走っている!」「すごい年季が入ったトラムもまだ現役なんだな、、、」「フィンランドと比べると結構地味な人が多いね、、」等と彼らの苦労を知りもせず面白がっているまだまだ未熟なボクであった。
多分ボクの友人マレはタリンの旧市街に程なく近いトラムの路上駅を降りて旧市街のほうに向かって歩いていると思われたが、何しろ今何処にいるのか何処に向かっているのか、これからどうするのか、、この街にマレ(達友人ら)は住んでいるのかさえその時はよく理解していなかったように思う、、、マレに色々聞いたり尋ねたいのだが、、、一番の問題はボクの英語力、、、
マレは外国に留学したりするなど(後で知る事になるがマレは当時学校で英語を教えていた)流暢できちんとした英語を話す人であった、外国人訛り?のせいかネイティブの英語よりは多少耳に入ってきてはいたが、まだ彼らの話すボキャブラリーがボクの側に十分なかった、、、その為何か説明してくれて入るのだが、、、殆どちんぷんかんぷんなのだ、、、もっと英語勉強しておくんだった、、、後悔先に立たず、、、
で、旧市街にはいると雰囲気は断然良くなり、長年踏み固められたと思われる石畳の道を多少足をとられながら歩き、多少寒さが身にしみはじめているボクであったがそんな時に欲しくなるのが温かい飲み物なのだが、、、
もちろんエストニアにもカフェやレストラン等はある、でも日本のようにあちこちにコンビにがあったりましてや自販機なんてものは皆無だ、、、寒空の街をうろちょろと一時間弱動いていてどこかで少し暖を取りたいな〜、何か暖かいものを飲みたいな〜、と思い始めていた頃ボクらは旧市街の中心地の広場にたどり着いた。
この広場は正に町の中心、マレは街のヘソと言っていたかもしれないが野球場がひとつ入りそうなくらい広い広場が目の前に広がっていた、、、そしてその光景は正にヨーロッパ、、、異国情緒たっぷりで、、、ちょっと曇りで天気はイマイチだったが古い建物に囲まれた広場と石畳が広がる広場、薄暗く曇った冷たい空、その何ともいえない寂しさに何ともいえない気分に浸っていた、、、すると突然目の前に誰かがこちらに向かって近寄ってきたのに気がついた、、、
「ん?誰だ?」、、、、と思っていると一直線にボクとマレの方に向かってくる彼女、、、「あれ?、、、あっ、あれは、、、日本で会ったエストニア人の一人、、リ−ネじゃないか?!」、、、そうなのだ、マレはここで待ち合わせていたようなのだ、、、
リーネだった、、、にこやかにこちらに向かってくる彼女、、、何とも懐かしく、、、又突然のサプライズに感動と感激につつまれ、、、体は寒かったが急に心は温かくなった、、、「オー、トーシオー」とリネ、、、ボクの名前を覚えてくれていた、、、、実はこの時ボクは彼女の名前をきちんと覚えていなかった、、、今でこそ友人全員の名をきちんと発音し書けるのだが、、、日本で会って紹介された時に覚えていたのは発音が簡単な人達で、、、で、一応その時全員覚えたはずなのだが、、、どうも発音になじみの無い人の名を覚えるのは苦手で、、一部歪み失念していた、、、oops
もちろんボクも彼女の事は覚えているし、到着翌日にこうして会いに来てくれて非常に感激していたが、マレが改めて半分冗談でリーネを紹介してくれたように思う、、、ははは、、、リーネ、名前きちんと覚えていなくてスミマセン、、、
リーネは旦那さんと一緒にマレと日本に来たエストニア人の内の一人で、民族衣装を来た彼女が綺麗で一緒に写真まで取った位なので見ればすぐに解った。が、しかし、残念な事にリーネは英語が殆どしゃべれない人で、、、多分ボクと同程度、、、なので、話をした記憶は殆ど無い、、、リーネはボクより5つ程年上の女性で、その年代の人は英語が解る人とそうでない人が大体半々ぐらい居る年代で、彼女以外でも英語は駄目だったエストニア人は結構居た、、、、
ロシア語は皆当然話すのだがエストニア語もロシア語もどっちを聞いても当時のボクは聞き分けられないどころか、英語さえも怪しい状態だったので、、、何とかジェスチャーとか解る英単語のみ発して何とかしのいでいたように思う、、、でも彼女は日本で会った時に優しい笑顔でお礼を言ってくれたり、喜んでくれていたのは印象に残っている、、、そんな彼女との突然の再会は本当にうれしかった、、、どう表現したら良いか難しいが生きてる喜びってこういう事なんだろうな、、、等とこれまで生きてきて味わった事のない感覚にボクはある意味頭は空っぽになっていた、、、
うれしさのあまり、その後どう移動したのかは殆ど覚えていない、、、、あまり長時間外にいると体の真が冷えてくるのでどこか適当な所で暖を取る意味も兼ねて旧市街にある店等に入ったりした、、、その中で印象に残っているのは中古?レコード店に入った事だろうか、、、元々洋楽が好きだったボクはアバとかアラベスクだとかノーランズとかクイーンとか、歌詞の意味などまったく知らず唯メロディーが好きでよく聞いていたのだが、エストニアではどんなレコードが売っているのか、という事に興味が沸き見ていたように思う。
実際いくつか買ってもみたかったが、、現金の持ち合わせも無く、、、あまりかさばるようなLPレコードを買うというのは躊躇し、なんだか解らない包装も粗末なミュージックテープを買うというのも何だか気も進まないし、、、そんな事でマレにお金を借りるのも何だし、、、という事でその時は唯ジャケットを見て想像を膨らましていた。
どの位時間が経ったであろうか、、、リーネの知人と思しきヤングボーイ(中学生?)がボクらに合流した、何処の誰かと思ったら、、、もちろんボクは彼を知らないが、彼はリーネの姉の息子という事が後で解った。
なるほど、リーネからうわさを聞いていた彼は日本人であるボクがどんなやつなのだろうと様子を見に来たんだろう、、で、確かこの彼はリーネよりも英語をしゃべっていたように思う。
そして程なく3人とボクはタリンの街にあるリーネの姉の家(ソ連時代に建てられたアパート)へ行く事になった。その姉の家はそれ程旧市街から遠い場所ではないらしく、歩いていく事になったのだが、、、寒さにまだあまりなれていないボクにとってはどの位歩くのだろうか?と多少不安であった、、、
幸い、それ程遠くない所にリーネの姉のアパートはあり、そちらにお邪魔させてもらった、、、家の中はとにかく暖かかった、、、冬が厳しいエストニアだから当然といえば当然なのだが、まず何処のアパートも階段の入り口にはドアがあり内側は外気からは遮断されている、階段が露出しているという事はまずない、アパート入り口のドアが閉まっていてもたいていの場合それ程暖房を効かせていないので(踊り場や階段部分)冷えるには冷えるが真冬ともなれば大違いだろう。
そしてアパートの構造自体も寒さをしのぐ為にけっこうがっちりとしている感じで、外側に断熱材が貼り付けてある玄関ドアを見て、外気をドアで仕切っていても相当冷えるんだろうな〜と感心していた。
でも、一旦家の屋内にはいると一気に温度は春になる。略全ての家はしっかりした暖房設備が整っていて、集合アパートの場合はラジエーターの様な放熱器具が各部屋に配置され、それはパイプラインで全ての部屋とつながりどこか遠く離れた温水を作る設備の場所から送られてくるらしい、、、そういわれてみれば、、街のはずれに巨大なパイプラインのようなものが巡らされていたのを思い出した、、、あれが恐らく町中に温水を配っている大元だったのだろう、、、
そしてリーネのお姉さんは初めて会う人なのだが、これまたボクを歓迎してくれて、、、お姉さんは多少英語をしゃべれる人で色々話しかけてくれていた、、、それがイマイチわかっていなかったボクであったが、、、、、
とにかく、暖かい部屋ではTシャツ一枚でも寒くない位で、実際お姉さんの屋内の普段着は本当に薄着で外から来たボクにとってはむしろ暑いくらいであった、だがまだ体の芯は温まっていなかったのでそこで頂いた暖かい紅茶はとてもありがたかった、、、身も心も温まり安らぎが一気に襲ってきていた、、、
つづく
エストニアとの出会い 「いざタリンへ3」