”私とエストニアとの出会い”〜プロローグ〜
思い返せばボクが初めてエストニア人に会ってからもう二十年以上になります。1990年当時ボクは実
を言うとエストニアという国を良く知りませんでした。
初めて耳にしたのが1991年、一度目のアメリカとイラクの湾岸戦争と同じ時期にソビエト国内で起きていた独立運動を鎮圧する為にソビエト
軍がバルト三国へ武力介入し隣国ラトヴィアとリトアニアで多数の市民が殺された日本のニュース
を見た時です。
いろんな意味で外国に関心があったボクは、世界各地で起こっている出来事や事件、ドキュメンタリー
等の番組を録画したビデオテープの中バルト三国があったことを覚えています。その時はまさか
こんなにボクがバルト三国の一つエストニアという国に係る事になろうとは夢にも思ってもいなかった
のですが、ホント運命というのは不思議な物です。
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学生時代最後の年に初めてヨーロッパのアイルランドへ一人旅に出たのをきっかけにボクの中の海 外への興味はますます強まっていきます。
当時アルバイトしていた喫茶店の友人がデンマークに留学していた経験があり、
そこで知り合ったソ連に住む友人について彼が話をしていたのですが、
それが実はソ連から独立間もないエストニア共和国の人だったのです。
91年当時エストニア国内では独立後の混乱がまだ続く中、喫茶店で働くボクの友人は彼らと連絡を
取り合っていて、今ならまだソビエト連邦に住む人として非常に安く国内移動という形で、日本海に
近いソ連極東の町ハバロフスクまで飛行機で来られる、これが最後のチャンスだと思うので、ぜひ
エストニア人の友人達を誘って日本に来たいという話が持ち上がりました。
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ボク達はとにかく彼らの日本観光ビザ発給のための招待状等の手配や安く宿泊できる大学の施設
を確保をして、彼ら(10名)を迎える準備をし、92年春、独立したエストニア共和国の国民として彼
らは遙々日本に来たのですが、まだその当時は、パスポートもソ連の物を使用していたし、日本に
はまだあったソ連大使館が旧ソ連共和国の人達の扱いを行っていました。
男女5人づつの20台半ばから後半のバイタリティー溢れる個性的な人達で、母国からわざわざ
アコーディオンと民族衣装を持ってきて、彼らの民族音楽(フォークミュージック)等を演奏し踊り歌
うのを見てとっても感動したのを覚えています。
当時あまり経済的に豊かとは言えなかったエストニアから来た彼らにとって節約しているにしても日
本での滞在費用は高く、彼らの日本滞在は僅か一週間でしたが、色々な所へ出かけ、過ごした時
間はとても思い出深く、心優しく豊な彼らを見てボクは人生の幸せって何なのだろうと思いました。
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学校を卒業後海外へ行こうと決めて資金を貯め始めていたボクは、彼らとの出会いで人生観が変
わったかも知れません。何よりも先に彼らの国を知りたいと思い日本で手に入るエストニアの本や
資料を読んで、実に辛い時代を乗り越えて今があるという事を初めて知って、これは何としても彼
らの国を訪れるべきだと思い、約一年半後ある程度貯まったお金を使い彼らを訪れる事にしたの
です。
1993年秋エストニア、海外へ一人で出た二度目の旅はそれまで生きてきて味わった事のない様々
な感動を経験する事になりました。
日本からの直行便がないエストニアへはフィンランドから船で行く事にしました。乗り継ぎ便で夜ヘル
シンキにモスクワから飛行機で着いたボクは、その日最後にエストニアのタリンへ向かう船の出発時
間が迫っていたので、急いでタクシーを飛ばして港に向かいました。
しかし北欧では10月はもう冬、寒さと見知らぬ街に一人でいる心細さと、エストニアには無事たどり
着けるのだろうかといった不安の入り混じった複雑な気持ちでタクシーの中で揺られていました。
つづく エストニアとの出会い続編
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