”大国に翻弄され続けたエストニア人の過酷な運命”


今の時代の日本に暮らしている私達の多くは自由を奪われ、侵略者の影に恐怖慄くという事を日常感じる事は無いでしょう。でも僅か数十年前までは日本でさえ大きな戦争があって、歴史が一歩違えば日本は全く違った世界になっていた可能性が有りました。 幸い、日本はアメリカに占領された後こうして経済発展を遂げて色々社会問題はあるものの、世界の紛争地帯や飢餓に苦しむ国と比べると贅沢でかなり豊かな国である事は間違いありません。

ボクが今かなり深くかかわっているエストニアと言う国も実はかなり過酷な運命を辿ってきた歴史があります。恐らくここを見ている殆どの人がエストニアの歴史はもちろん、エストニア自体を良く知らないかもしれませんよね。無理もありません、何を隠そうこのボクも1991年の湾岸戦争の時期にソ連がバルト三国の市民に武力攻撃をしたニュースをテレビで見るまでは全く知りませんでした。

あの事件をテレビで見たボクはホントにこんな事があっていいのか?と目を疑いました。戦争という悲惨なことが当時のヨーロッパや中東などで起きていたのは知っていましたし、違った国或いは利害が食い違うグループがいがみ合い覇権を争い衝突すると言うのは肯定はしませんが、理解できました。

でもこのソ連軍が何の罪も無い一般市民に向かって砲弾を撃ち込み銃を乱射すると言うのはどうしてなのかちょっと理解できませんでした。と同時にソ連と言うのはとても恐ろしい国だと強く印象に残ったのを覚えています。でも今から思えば当時のボクは視野が狭く世界や歴史を知らなかったですね。

これまでにすぐ側の中国で起きた民主化を望む学生が起こした天安門事件等も知ってはいましたが、ボクは自分やその周りの狭い世界の事にしか余り関心が無く、ただ大変だなーと思った程度でした。でも英語を勉強して外国人と知り合い、そして外国に行く機会があったりして色々な人に出会ったボクはそれまで自分の国さえ知らなかった無知な自分がとても恥ずかしく、それ以降色々な事に関心を抱いて物事を見ていました。

話を戻すと、今この日本で自分の国の国民に向かって自分の国の軍隊が発砲してくるという事が考えられるでしょうか?まずありえ無いですよね、でも社会主義体制の国ではありえるんですよね。

バルト三国で起きたそういった状況は実は昨日今日出来上がった状況ではなかったというのを後で調べていくうちに分かってきました。中世から近代までのヨーロッパは戦乱が続いた時代でしたが、エストニアも例外ではなく、13世紀頃に十字軍がエストニア地方に攻め込んできて以来、エストニアは数々の隣接したヨーロッパやロシア等に占領され続けてきたんです。

多くのエストニア人は農民で、奴隷的に扱われ、ドイツ人の貴族や商人等のエリート層がエストニアを長い間牛耳っていて、実に700年余りに渡ってエストニア人は自分達の国を自分達で治める事は無かったんです。だたほんの一時期だけ幸いにもエストニアは独立していた時期がありました。それは丁度第一次大戦後のロシア革命の真っ只中、ソ連邦が出来る直前で、内乱でエストニア等に兵力を集中できなかったロシアがエストニアの独立戦争に負けてようやく勝ち取った独立でした。

エストニアでは独立前に僅かにあった平和な時代にエストニア人のエリート層が増え、そしてその人たちが後にやってくる独立のチャンスの時に国全体をまとめ上げ引っ張る役目をしたのでした。もし、平和な時代が無くエリート層も無い農民だけだったとしたらエストニアは永遠に独立する事も無く、人々もその意欲を失い文化伝統も消え失せたロシアの一地方になっていったに違いありません。

エストニアの独立は僅か20年でしたが、その意味が如何に大きかったのかはその40年余り後にやってくる2度目の独立のチャンスまで人々が意欲を失わなかったからです。独立を回復したエストニアは1920年から1940年までエストニア人自身によって国を飛躍的に発展させる事が出来ました。

そして僅か20年ですが平和な時代を過ごし人々は自由の素晴らしさを味わったのです。この時期があったからこそ、その後再びドイツやソ連に侵略され独立を失った後も人々は希望を失わず、近い将来いつか必ずまた独立する事を願い日々その日が来る事を望んでいたんです。

エストニアが独立している間隣国ソ連は指導者がスターリンに代わり、より軍事に力を入れた大国になっていったのです。そして運命の1939年8月、ソ連とヒットラー率いるドイツが秘密協定を結びエストニアを含むバルト三国やポーランド等を占領する計画を練っていたのです。

その後ソ連政府はソ連領の秩序とフィンランド湾の安全を確保する為と言うことで、エストニアをはじめバルト三国と一方的な安全条約を結び、ソ連軍の兵士をエストニア国内に置く事をエストニア政府に了承させたのです。でもスターリンは始めからエストニア等を占領するつもりだったのは言うまでもありません。でもその当時のエストニア大統領コンスタンチンペッツはどうにかなるだろうと甘く考えていました。そしてエストニアは運命の1940年6月17日を迎える事になるのです。

当時ドイツ軍がフランスを攻め込んでいる事に世界の注目が集まる中、ソ連当局の動きに注目する国は殆どありませんでした。ソ連政府はエストニアをはじめバルト三国に安全が確保できない等の言いがかりを付けて、既にソ連兵士がエストニア国内駐留していたエストニアはソ連政府の一方的な要求を呑まざるを得ず、ソ連軍が自由に入国する事を認める条約にサインしたのでした。でもソビエト軍が大規模に駐留し始めるまでエストニアの一般の人々は現実に起きている危機を感じた人は少なく、独立以来続いていた経済活動を平常通り行っていました。

次々とエストニア国内に入ってくるソ連軍の兵士は実はとてもみすぼらしく、ソ連の理想だった計画経済は破綻しかかっていてソ連全体が物不足にあえいでいた時代でした。そんなソ連兵士にとってエストニアは宝の山に見えたことでしょう。

エストニアにソ連兵士を送った後のソ連政府の行動は敏速で、直ちにエストニア軍を解体して抵抗できないように民間の国防組織からも武器を取り上げ、形だけの選挙を行い、そしてエストニア上院の希望を受け入れるという形でエストニアをソ連邦16番目の共和国として編入したのでした。次々にやってくるロシア人達はエストニアの豊かな物を略奪して、金品や家を奪い、エストニア人を追い出してロシア人がエストニア人達の家に住み始めたのでした。

ただロシア人たちがエストニアの富にのみ関心を抱いていたのならまだ良かったのですが、その後あの恐ろしい粛清が始まる事になるのです。   つづく



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